あなたの組織では、この先何年続くことを目指して、人材育成に取り組まれていますか?10年、30年、50年?

今回、㈱ビジネスコンサルタントでは、妙心寺退蔵院の副住職松山大耕さんに、「気づく力と気づかせる力」をテーマにご講演いただきました。松山さんは、禅を中心とした日本文化を国内外で広める活動をされています。また、ビジネスパーソンに向けた講演・研修に多数登壇、企業の社外監査役を務められるなど、日本の企業の組織課題にも精通されています。

「とりあえずやってみたら?」という言葉を、先生や先輩からかけられたことのある方は多いと思います。私もそうです。社会人になりたての頃は、「細かに具体的に教えるのが面倒くさい先輩が使う決まり文句」くらいに受け止めていました。しかし、この何気ない言葉のルーツも、禅にあります。私の先輩がそれを意識していたかどうかは別として、この「とりあえずやってみる」「習うより慣れろ」には、教える側の懐の深さが要求されます。そして、いつの時代にも大事になるであろう、感性を育む可能性があります。

松山さんに伺った、禅の長い歴史を支える人材育成の考え方をご紹介します。永続する組織に必要な、違いに気付ける人材を育成するヒントにあふれています。

前の記事:禅に学ぶイノベーションのための人材育成_『気づく力と気づかせる力」①


禅の教えの中でも特徴的な「聞思修」とは

禅というのは仏教の一派です。仏教は今から2500年ほど前にインドで生まれ、その500年後の2000年前に生まれたのが禅です。そして1500年前にインドから中国に禅を伝えたのが達磨さん、そして1000年ほど前に中国から日本に伝わりました。禅の特徴は何なのか、それを一言で説明することには無理がありますが、今日は二つの特徴をご紹介します。

特徴の一つとしてシンプルであることを示す、ということがあります。禅の右側には単純の「単」という字があります。禅は、寺の本堂や庭の造りもミニマルなデザインでシンプルです。また、坐禅をして心をシンプルにしようとしています。複雑な世の中にあって、シンプルであるというのは重要なことです。

二つ目の特徴は、実践・体験です。自分でやるということです。禅は多くの本が出版されています。素晴らしいお坊さんもたくさんいらっしゃいます。しかし、どれだけ話を聞いたり本を読んだりしても、それだけでは禅はわからない。お釈迦様がなさったような厳しい修行を、全部わからなかったとしても、自分で追体験していこう。禅は自分の体験の中から教えを得ていくことを重視しています。

禅僧になるためには、厳しい修行を最低3年は行います。禅の修行は特徴的なものですが、そこには、「聞思修」(もんししゅう)という考え方があります。これは、仏教の教えを体得するための三つの要素です。「聞」は座学、セオリーを学ぶということ、「思」は自分で考えるということ、そして「修」は、それを実践していくということです。この三つの全部が重要です。

皆さんの会社でもおそらくこの三つの要素を大事にされているでしょう。ふつうはこの三つに順番があって、最初に先輩からセオリーを学び(聞)、自分で考えさせて(思)、最後に実践する(修)といったように人材教育をされているのではないかと思います。しかし、禅の修行道場では順番がまったく逆、「修思聞」です。簡単に言うと「とりあえずやってみろ」ということです。これをやってみてどんなことがあるんだろうか、と最初から教えません。とりあえずやって2~3年たつと、「何のためにこんなことをやっているのか」と考え始め、そこからセオリーや歴史を学んでいく、修行が終わって何年もたってからわかる、というのが禅のやり方です。

私たちの修行は、最初、先輩からとにかくガミガミ言われます。」なんでそんなことまでと思うほど言われます。2~3年ガミガミ言われ続けて、型を直された修行僧は、どれだけ出来の良い新人の修行僧よりも歩き方、合掌、お辞儀一つにしても有難さというかクオリティがまったく違います。その人のオーラというか、その人の人となりに現れてくるのですね。自分を鍛錬しなければ、どうしても身につかない。そういったものを「修思聞」から見いだしているわけです。

禅における人の育て方

禅が日本に伝えられて1000年、妙心寺が開かれて650年たつわけですけれども、なぜそんなに長く組織が続くのか。それには美しい建物があるとか、教えが素晴らしいなど、いろいろな理由がありますが、やはり一番は人が育っているからということです。では、お寺ではどのように人を育ててきたのか。それを皆さんにご紹介したいと思います。

1. 言われたことはしない

まず一つ目は「言われたことはしない」ということ。以前、妙心寺の管長(宗派の長)が、説法でこのような話をされていました。お盆であるお家に行ったらおばあちゃんと4歳のお孫さんがいらっしゃった。お勤めの後に、お孫さんが「おばあちゃんは毎朝、温かいご飯とお茶をお供えするけれど、それはなぜなの」とおばあちゃんに尋ねました。するとおばあちゃんは「それはね、仏様が湯気を召し上がるからだよ」と答えたそうです。それを聞いたお孫さんは、翌日からおばあちゃんと一緒に毎朝仏様にお供えをするようになりました。

この話には二つのポイントがあります。一つ目は湯気を召し上がるという4歳でもわかりやすいたとえ話をしたこと、そしてもう一つは、これがより重要なのですが、おばあちゃんが毎日、仏様にお供えをしていたこと。「孫でも部下でも弟子でも、言われたことをするのではなく、見たことをするのだ」と管長はおっしゃっていました。道場での修行中では3Kと呼ばれるような人がいやがる仕事ほど、修行が長い年長の修行僧が率先して行います。言葉だけではなく、見せないと伝わらないからです。ですから、まず見せることが大切だということですね。

2. 観る

この「観る」は、観光の観という字を書いていますが、これはただ単に視界に入って来るということではなく、心の目で観るということです。私も修行中、「最近の修行僧はたるんでいる」「昔はもっと厳しかった」「近頃の若い者は」と、道場を卒業された先輩の和尚様方からお叱りを受けていました。しかし、ある説法の中で、老師が「君たちは偉い」というお話をしてくださいました。老師が現役の修行僧でいらっしゃった頃の方が、修行の絶対値としては厳しかった。しかし、当時は道場の外を見ても車はほとんど走っていなかったし、テレビは集落に1台しかなく、道場の外の生活と中の生活はほとんど差がなかった。今は1歩外へ出たら、24時間コンビニで好きなものは買えるし、エアコンはあるし、インターネットもある。生活が全く違います。そんな中、君たちはわざわざ志して不便で、つらくて、寒い修行に取り組んでいるのだから、君たちの方がよほど偉いとおっしゃってくださった。それを聞いて、「なんてわかってくださるんだ」「本当に自分たちのことを観てくださっているな」ということが伝わってきました。心の目で観て伝えることは、モチベーションを上げるためにとても重要です。

3. わざと教えない

禅の修行で徹底されているのは、わざと教えないということです。例えば、私たちの修行で最も大事なものはご飯当番で、ある程度修行を積んでからでないとご飯を作らせてもらうことができません。ご飯当番は、だいたい半年くらい勤めるのですが、ある日突然「明日からご飯当番を務めなさい」と言われます。前任者からの引き継ぎは、修行の合間にたったの2時間で済まされます。それでは、釜や米の場所、釜を洗う場所など最低限のことしかわかりません。その状態でいきなり40人ぐらいの修行僧のご飯5升を薪で炊かないといけないのです。今の時代、飯盒でご飯を炊くことすらめったにありませんから、何が起こるかというと、全員が失敗します。大抵の場合、焦げることを恐れて早くまきを引きすぎて、べちゃべちゃのご飯になります。当然ものすごく叱られますが、またすぐに次のご飯の時間がやってきます。

たとえば、「おいしいご飯を炊く」というタスクベースで考えたら、2週間引き継ぎをすれば、失敗しない炊き方を教えてもらえて、誰でもおいしいご飯が炊けます。しかし、私たちはそれを絶対にしません。それをしてしまうと盲目的にその方法しかしなくなり、試行錯誤しなくなるからです。不思議なことに、どれだけ手際の悪い修行僧でも1カ月炊き続けたらおいしいご飯が炊けるようになります。つまり、全員失敗させて、全員成功させるわけです。私たちの修行の目的は、おいしいご飯を食べることではなく、人を成長させることです。ですから、わざと教えないという手段を取ります。試行錯誤の上、自分で見出すことが、人の成長では最も重要なことであり、そこに創意工夫、気づく力が醸成されます。

4. 瞬時に動く

今では「立派なお寺ですね」と訪れた皆さんからおっしゃっていただける妙心寺ですが、創建された当初は、ボロボロのあずまやが三つしかなかったそうです。そこに妙心寺を創建された和尚さんと2人のお弟子さんがお住まいでした。ある日、ゲリラ豪雨に見舞われ、お堂の天井が雨漏りしているのを見つけた和尚さんは、弟子を呼びます。「雨漏りしているぞ、誰か来んか」。1人のお弟子さんはあまりにも慌てていたため手にしていたザルを持って駆けつけました。しばらくしてから、もう一人のお弟子さんが鍋を持って和尚さんのところへ駆けつけます。そうしたら、和尚さんは鍋を持ってきた弟子に対して怒ったというのですね。きわめて禅的な話ですが、これは私が思うに、和尚さんはザルでも鍋でも何でもよかったんです。とにかく瞬時に動けとおっしゃりたかったのではないでしょうか。私も学生時代に目の大けがをし、大きな手術をしたことがありました。友人たちにそのことを告げるとある友人が入院初日に見舞いに来てくれました。彼にも目の状態は説明していたのですが、なんと大量の本をもって見舞いに来てくれたのです。そのときは、見えないのにこんなにたくさんの本を持ってきてどうするんだ、と言いましたが、内心は本当にうれしかったのです。役に立つとか立たないとかいう問題ではなく、すぐに駆け付ける。それが私の心を打ったのです。雨水をつかまえることと、人の心をつかまえるということはまったく別物だぞと和尚さんはおっしゃりたかったのです。

5.「能力」ではなく「働き」が大事

皆さんの会社では、新卒や中途で社員を採用される時、どんな会社で働いてきたか、どんな資格を持っているか、TOEICは何点か、どんな学校で勉強してきたかといったスペックを確認されるのではないでしょうか。

しかし、禅の修行道場はスペック不問です。禅の道場で重視しているのは、「とにかくやる」ということ。禅の修行では、あえて不合理、非論理的、なぜこんなことをしなければいけないのかという課題を突き付けます。それに対して、無理だと言うだけの人間なのか、「やったことはないけど何とかする」とやってみせるのか、そこを私たちは見ています。それが「働き」なんですね。時間的、物質的、さまざまな制約条件の中で、最大限のものを生み出す力。何とかする力です。これをそのまま、企業で採用したら単なるブラック企業になってしまいますが、不思議と道場ではこれが成り立ちます。それは老師に対する信頼と憧れがあるからだと思います。老師の付き人が朝3時に起こしに伺うと、老師は朝2時にはすでに起きて、その日、修行僧にするお話を練習している声が遠くの方から聞こえてきます。20代の修行僧が眠い、眠いと言いながら修行している中、70歳を超えた師匠が、朝2時から起きてお勤めをされているのです。それを知っているから、「この人についていこう」と思う、そういう信頼があるから成り立つ。皆さんの会社でこのようなことをしたら、時代錯誤だと思われるかもしれません。しかし、お寺という組織はこれで1000年続いているわけですね。全部そのまま応用してくださいとは言いませんが、そのエッセンスを皆さんの会社でも取り入れていただけたらと思い、紹介させていただきました。

今日は「気づく力と気づかせる力」ということで、お話をすすめてきましたが、やはりこういった人間の感性が、AI時代において、より重要になってくると思います。これをぜひ一つ、皆さんの会社でも醸成していただいて、ひいては世のため、人のためになるような素晴らしい製品、サービスを生み出していただけたらと思います。


松山さんのお話を2回にわたってご案内して参りました。スピードが重視され、合理的・論理的に物事をすすめることを良しとする現代社会において、「聞思修」のような禅的な考え方を企業内で実践することは難しいようにも感じられます。しかし、私たちは人が育つ、という領域においても合理性や効率性を重視しすぎているのかもしれません。正解がない時代だからこそ、自分の感性を信じ、磨いてみること。それが自分の意思決定への自信につながるし、違いを生み出すイノベーションの要になると感じました。

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