「収入が増えるにつれて幸福度を感じる人は増えていくけれども、年収が75,000ドル付近に達すると頭打ちになる。」これは2010年にアメリカの経済学者、カーネマンとディートンが発表したもの※1で、ほぼ定説となっているのでご存じの方も多いのではないでしょうか。じつはこの論文の主張は、「人生満足度は年収が上がるにつれて上昇する。しかし、幸福度の上昇は一定の年収で頭打ちする」というものです。なぜ人生への評価(満足度)と幸福度とで異なる傾向がみられるのかは、研究者たちにとって長年の謎でした。ところが2011年、収入が増えれば増えるほど幸福度は上がり続ける、と主張する論文がキリングスワースという若手研究者から発表されました※2。この対立する見解を出した当の本人たちは、なんと共同で研究をし、その結果は2023年に『収入とウェルビーイング:論争は終結※3』というタイトルで公開されました。お金と幸せの関係というキャッチ―なテーマということもあり、すでにさまざまな経済誌やブログなどで紹介されています。
今回注目したいのは、その結論以上に、そもそも二つの研究で異なる結論が導き出されたのはなぜだったのかということ。理由を探っていくと、新しい調査手法の可能性とともに、データ分析する際、着眼点をどこに置くか、といった課題が見えてきました。この記事では、新たな知見が導き出された経緯を追いかけてみたいと思います。
なお、カーネマンらとキリングスワースの研究報告には「Well-being(ウェルビーイング)」と「Happiness(幸福、幸福度)」の二つの表現が出てきますが、意味するところは同じです。この記事でも二つの言葉を用いていますが、同じ意味とお考え下さい。「幸福」の他に、カーネマンとディートンは「感情的ウェルビーイング」、キリングスワースは「経験的ウェルビーイング」の表現を用いています。
2023年の研究の結果は
2023年3月、カーネマンとキリングスワースはお互いの過去の研究を見直して再検討し、キリングスワースの主張通り、ウェルビーイングは収入の増加とともに上がり続け、頭打ちにはならないことを確認した、と報告しました※3。この論文では、先の研究と異なる結論が出た要因も説明されています。その要因とは、
①ウェルビーイングの測定・調査手法の違い
②データ分析の着眼点の置き方
でした。それぞれどういうことか、見ていきましょう。
カーネマンとディートンの研究(2010年)に用いられたウェルビーイングの調査手法
カーネマンとディートンが研究に用いたのは、大手調査会社がアメリカ市民に電話でインタビューをして集めた45万件のデータです。幸福な状態を調べるためのインタビューは、次のように行われました。
電話インタビューの質問 | 答え | 図A |
昨日一日の大部分で感じたのは幸福感ですか | 「はい」か「いいえ」 | 「はい」と答えた人をポジティブ感情を経験した人(=幸福な人)としてグラフ化 |
昨日一日の大部分で感じたのは楽しさですか | 「はい」か「いいえ」 | |
昨日はよく笑いましたか | 「はい」か「いいえ」 | |
昨日一日の大部分で感じたのは心配ですか | 「はい」か「いいえ」 | 「いいえ」と答えた人を憂鬱ではない人(=幸福な人)としてグラフ化 |
昨日一日の大部分で感じたのは悲しみですか | 「はい」か「いいえ」 |
次の図Aが、カーネマンとディートンが分析したウェルビーイングと収入の関係をグラフにしたものです。縦軸がウェルビーイング、横軸が収入です。これを見ると、幸福な人(ポジティブ感情を経験している、憂鬱ではない)の割合は年収が増えるにつれて上昇するものの、年収が一定額に達するとその割合は増えなくなっていますね。そこでカーネマンとディートンは、年収75,000ドル付近を超えると、それ以上収入が増えたとしても、幸福感を得るのに必要なこと、つまり愛する人と過ごす、苦しみを避ける時間を作る、余暇を楽しむ、といったことがより効果的にできるようになるわけではない、と考えたのでした。

キリングスワースの研究(2021年)に用いられたウェルビーイングの調査手法
一方のキリングスワースが用いたのは、経験サンプリング法という比較的新しい調査法です。その特長が一般社団法人日本経験サンプリング法協会のホームページに記載されています。
経験サンプリング法の特長 日々の生活の中で人々が経験するできごとに関して、あいまいな記憶に頼ることなく、リアルタイムでデータ化することができます。さらに、こうしたデータ収集を高頻度で繰り返すことによって、発生頻度やその状況を知ること、また時系列的な推移を追跡することが可能になります。 人々は、どんなときに、どんな場所で、なにを考え、どのように感じ、いかなる行動を取っているのでしょうか? こうした思考・感情・行動のパターンは、時間経過や状況変化に応じて、どのように移り変わっていくのでしょうか? これらの問いに答えることができるのが、経験サンプリング法の特長です。 |
キリングスワースの調査も、成年でアメリカ在住のビジネスパーソンを対象に行われました。調査の参加者には、自身のスマートフォンに一日三回以上、次のような質問が数週間にわたり送られます。参加者はその時々の気持ちをその場でスマートフォンに入力しました。
スマートフォンに届く質問 | 回答方法 |
「今の気分はどうですか?」 | 「非常に悪い」から「非常に良い」のどの程度か、スライドバーを操作して回答 |
集まった1,725,994件の回答をもとに、人々が一日に感じた気分の平均と収入の関係がグラフ化されました。それが図Bです。こちらも縦軸がウェルビーイング、横軸が年収です。ご覧の通り、年収が増えるにつれてウェルビーイングの平均値は上がり続けていて、カーネマンの研究のようなグラフの平坦化は見られません。

経験サンプリング法が感情的ウェルビーイングの測定に優れる
2023年の共同研究でカーネマンとキリングスワースは、互いの研究で明らかにしようとしたのが同じ「感情的ウェルビーイングである」ということに同意したうえで、感情的ウェルビーイングを測定するには、キリングスワースが用いた経験サンプリング法の方が優れているという結論に達しました。電話インタビューのように過去の感情を尋ねるのではなく、経験サンプリング法なら、記憶に頼らず、今ここの感情を回答してもらうことができるからです。
テクノロジーの進化によってより精緻なデータ収集が可能になったということですね。
明らかになった先の研究の問題点と新たな知見
カーネマンとキリングスワースは、それぞれの研究で異なる結論が導かれた要因を明らかにするため、次のような仮説を立てました。
仮説①幸福感の低い少数派のグループがあり、その中では不幸のレベルは収入の上昇とともに下がるが、一定の閾値(金額)に達すると下げ止まる 仮説②幸福であると答えた多数派の中では、幸福度は収入の上昇とともに上がり、高収入の範囲に達してもその傾向が続くグループがある |
最終的にこの仮説が正しかったことがわかりました。2010年のカーネマンらの研究では、幸福度の低いグループも含めてデータ全体でウェルビーイングと年収の関係を捉えていました。そのため、一定の収入を超えると幸福だと答える人が増えなくなるように見えたのです。けれども、「収入が増えても幸福を感じない人がいる」と「収入が一定の金額に達すると幸福を感じる人は増えなくなる」が意味することは同じではありません。研究時に幸福度が低い人のデータと年収の関係に注目していれば、より正確な知見が得られていたのでしょう。けれども、幸福度と収入の関係を調べたい時に、不幸な人に着目してみようとはなかなか思いませんよね。データを統計学的に見る時の難しさはここにあります。
仮説を確かめるのに役立ったのは、経験サンプリング法で集めたデータの再分析でした。まず幸福度のスコアに応じて、データ全体を5つのグループに分けます。そして各グループにおける、収入の増加と幸福度の変化を分析しました。そのグラフが図Cです。ご覧の通り、幸福度が最低のグループは、年収が上昇しても幸福度が上がらなくなっていきます。一方で幸福度が最高のグループでは、年収が高くなるにつれて幸福度の上がり方が急激になりました。つまり、幸福度の低い人は収入が一定額に達するとそれ以上幸福感は高まらない一方で、幸福度の高い人は収入が上がるとますます幸福感が増す、ということです。

ただし、2021年の時点では、キリングスワースは幸福度が一番高いグループと一番低いグループのデータが相殺し合っていることに気づきませんでした。年収と共に幸福度がほぼ一定の割合で上がっていくように見えたのは、この相殺効果のせいだったのでした。2023年の論文ではその点を指摘し、キリングスワースの研究結果にも見落としがあった、としています。2021年の時点でも「幸福度が一番低いグループに注目する」という発想はなかったのです。ここでも、データを分析する際に着眼点をどこに置くかを判断する難しさがうかがえます。
収入とウェルビーイングの関係はどこまで続くのか?
追加情報として、キリングスワースが2024年7月に発表した報告(『Money and Happiness: Extended Evidence Against Satiation』)※4についてご紹介します。
2023年の発表の後も、「お金と幸福度の上昇が頭打ちになる飽和点はあるのか」を探っていたキリングスワースは、自分の研究データの年収上限50万ドルをはるかに超える資産を持つ富裕層の研究を見つけました※5※6。これら2件の研究は、人生満足度尺度※7を用いて富裕層の幸福度を調べており、キリングスワースの研究データと関連付けが可能なものでした(注:前述した2023年の研究では、別の尺度である感情的ウェルビーイングのデータを使用)。そこで、年代の違いなどを調整してこれら2件とキリングスワース自身の研究データを並べてみたところ、キリングスワースの研究データの収入の範囲を拡大した先に2件の研究データが位置し、幸福度が上昇し続けることがわかりました。

ポイント①お金と幸福との関係は、年収50万ドルを超えても続く
・富裕層の幸福度は、年収50万ドル付近の人よりも統計的に有意に高い。
・従来の「一定の収入を超えると幸福度が頭打ちになる」という仮説が成り立たないことが重ねて示された。
ポイント②幸福度の差は、収入が中程度の層と低い層よりも、収入が中程度の層と富裕層の方が大きい
・年収7万〜8万ドルの層と低収入層の幸福度の差(0.44ポイント)よりも、7万〜8万ドル層と富裕層の幸福度の差(1.22ポイント)の方が約3倍も大きかった。
ポイント③経済状態はウェルビーイングに一定の影響を与える
・低収入かつ幸福度の低い層のスコアは4.14、それに対して富裕層ではスコアはほぼ6。お金が幸福に与える影響は小さいとはいえ※8、無視はできないと推察される。
お金と幸福の飽和点、私たちの幸福感、そしてビジネスへの示唆は?
キリングスワースがこのように「お金と幸福の飽和点」にこだわるのはなぜなのでしょうか。
論文では、「それほど高くない金額でウェルビーイング向上の飽和点があると信じることで生じうる問題」を指摘しています。
まず、「これ以上お金を使ってもウェルビーイングは高まらない」と思って人々がモノやサービスを求めなくなること。そして、欲しいモノやサービスを手に入れればウェルビーイングを高めることができるのに、自らの経済力を高めようとしなくなってしまうこと、です。ちなみに、ここでキリングスワースが述べている「モノ」とは、物質的な所有物だけではなく、購入可能な広範な商品やサービス、さらには経済的な豊かさによってもたらされる自由の感覚や心の平穏を意味しています。
一方で、ある人が他の人よりウェルビーイングである理由を説明する上で、お金は多くの要因の一つに過ぎないことも念頭に置いておく必要があります。お金そのものにプラスの効果があるとしても、お金のために他のウェルビーイングの源泉を犠牲にすれば、幸福度は向上するどころか、むしろ低下してしまう可能性は十分にある、ともキリングスワースは忠告しています。
2023年の研究によって、「お金がある程度あれば幸福は頭打ちになる」という通説はすでに覆されてはいますが、本研究は「お金と幸福の関係は想定以上に続く」ことを示しました。ここから得られるビジネスへの示唆とは何でしょうか?
ひとつには、どういった報酬戦略を取るかということです。「年収○○万円を超えたら、それ以上は幸福度に差がない」という従来の見方に縛られずに、働く人たちの報酬を設計する必要があります。報酬は組織や上司からの評価・期待も表しています。したがって、ある水準を超えたとしても、適切な昇給やインセンティブを設けることは、働く人たちのモチベーションを高め、結果的に業績向上にもつながるでしょう。
報酬だけではなく、働く人たちの資産形成の支援も、ウェルビーイング向上につながる可能性があります。今回の研究でキリングスワースが引用した富裕層は、収入に加えかなりの資産も保有する人を含みます。最近では、ストックオプションや持ち株等の制度、資産運用を促す金融リテラシー教育などを提供する組織も増えています。目先の収入だけではなく、中長期的に経済的な不安を軽減することは、ウェルビーイングにつながります。
働く人のウェルビーイングが、仕事の意味・意義を感じる、達成感を得る、仕事に熱中する、ポジティブな気持ちで働ける、他者と良好な関係性をはぐくめる、といった非経済的な要素で高まる可能性は、これまでもたびたび示唆されてきました。こうしたことが重要であることに変わりはありませんが、今回の研究結果が示しているのは、経済的な側面とのバランスにもしっかり目を向ける必要がある、ということではないでしょうか。
※1:『High income improves evaluation of life but not emotional well-being』(Kahneman、Deaton、2010年)
※2:『Experienced well-being rises with income, even above $75,000 per year』(Killingsworth、2021年)
※3:『Income and emotional well-being: A conflict resolved』(Kahneman、Killingsworth、2023年)
翻訳はすべて㈱ビジネスコンサルタント
※4:Matthew A. Killingsworth,『Money and Happiness: Extended Evidence Against Satiation』(2024年), https://happiness-science.org/money-happiness-satiation/
※5:E. Diener, J. Horwitz, R. A. Emmons, 『Happiness of the very wealthy. Social Indicators Research 16, 263–274』(1985年)
※6:G. E. Donnelly, T. Zheng, E. Haisley, M. I. Norton, 『The Amount and Source of Millionaires’ Wealth (Moderately) Predict Their Happiness. Personality and Social Psychology Bulletin 44, 684–699』(2018年)
※7:被験者に「(すべてのことを考慮すると)、私は自分の人生に満足している」という質問に7段階で答えてもらう。()内はドネリーらの調査で使われた質問に含まれる表現で、それを除くと3件の研究とも質問内容は一字一句同じであった。
※8:例えば、ディーナーらの論文には、主観的ウェルビーイングに影響を与える要素として、生活環境、遺伝的要素、社会経済や政治状況などが挙げられている。
E. Diener, S. Oishi, L. Tay, 『Advances in subjective well-being research』(2018年)
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大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)卒業後、事務機器メーカーで製品企画、通信機器メーカーでエンジニア向けマニュアル制作に携わる。その後フリーランスの翻訳者として研鑽を積み、株式会社ビジネスコンサルタントに中途入社。サステイナビリティ、組織開発、ウェルビーイング研究を中心に、さまざまな分野の海外情報の収集と翻訳、研修資料の制作に取り組んでいる。